今週は、
真面目に働いたご褒美一発目。
花金、
一年ぶりに会うお友達とご飯食べに行ってきた♪
こないだランチに行った、
『実身美』に♪
ディナータイムには早めだけど、
おかげで5時半までのお買い得メニューにありつけたりして。
この友達とは、
一ヶ月一緒やっただけなんだけど、
波長が合うらしく、二日目で打ち解けすぎで『ちゃん』呼び系(笑)
一年ぶりの今日も、
話が弾みすぎ。。
5時台から入ったお店で、
二時間以上喋りマクリマクリスティ(`д´)
さすがに、、、
人気のお店で並び始めてきて…
『お客様、お待ちのお客様がいらっしゃいますので…』
そぉね。。
今日は明日に備えて、早い夕飯&美容に良い食事☆
仕上げは美白パックだわさ(*^-^*)
武士道とイエスの言葉
杉本苑子さん著 「孤愁の岸」。 昭和三十七年、講談社刊。 第四十八囘直木賞受賞作品。
時は十八世紀中葉、第九代將軍家重の治下。 主たる舞臺は濃尾平野。 そこを流れる木曾、長良、揖斐の三河は、古來 「暴れ川」 として知られ、その治水工事は秀吉、家康の頃から何度も行はれてゐる。
その内、寶暦年間に行はれた謂はゆる 「寶暦治水」 に、幕府から 「御手傳ひ」 を命じられて當つた薩摩藩士らの苦鬪の物語が本作。 主人公は島津家の勝手方家老、謂はゞ 「財務擔當役員」 にして、治水工事の 「普請總奉行」 を命じられた平田靱負。
物語は寶暦四年(一七五四年)正月、自宅に寛いでゐた靱負が、急の登城を命じられる處から始る。 川普請 「御手傳ひ」 の台命が下つたとの急報が、江戸の藩邸から屆いたのだ。
「御手傳ひ」 ……、と言へば聞こえはいゝが、實は幕府の謂ふそれには、工事費のほゞ全額を負擔する事が含まれる。 しかも、その幕府見積額は當初約十ないし十五萬兩、最終的には四十萬兩に達するのだが、その頃、七十七萬石の大身を誇る島津家には、既に六十萬餘兩もの借財があつた。 たとへ當初見積の十萬兩で收まるにせよ、その負擔を引き受ければ、薩摩藩の 「倒産」 は必至とも言へる。
かと言つて、台命を拒めば幕府軍との一戰を覺悟せねばならなず、これまた島津家の滅亡は必至である。
當然ながら藩論は割れる。 忍び難きを忍んで台命を承るか、それとも斷つて、たとへ及ばずとも一戰して薩摩武士らしく散るか ……。
が、結局 「台命受諾」 と決り、普請總奉行を命じられた平田靱負は、藩民からの更なる 「絞り取り」 や、藩士らからの 「借り上げ」 強化など、何はともあれ資金調達に心血を注ぐ。
しかし、何と云つても主たる資金源は、やはり大阪の商人らである。 靱負は豫てから取り引きのある商人や、この機會に新たに利權にありつかうとする者やらを相手に、あの手この手で新たな借り入れや、藩物産の先物代金の前取りや、のみならず、賄賂紛ひの獻金集めやらにも奔走する。
その 「あの手この手」 の中には、卑屈に出たり威壓したりは云ふに及ばず、架空の利權をちらつかせる詐欺紛ひや、現物の手當てのない空賣りや、豫て入魂の商家の、靱負夫妻も我が子のやうに慈しんでゐた愛娘を、欺いて人身御供に使ふかのやうな卑劣さへ含まれる。
洵に悲慘だが、その悲慘は勿論、工事に從事した薩摩藩士らにこそ深く激しく及んで、事故死者や、無念の割腹自決者も續出する。
が、粒々辛苦の末、ともあれ工事は完成して、幕府からも薩摩藩主からも 「お襃め」 を頂戴し、地元の農民らからの感謝も受けて後、萬人が最大の功勞者と認める靱負は、現地を去らず割腹して果てる。
昭和五十七年刊の講談社文庫版に、解説を書いてゐる神谷次郎さんによれば、この 「平田靱負の自裁によつて閉ぢられる作品の終焉からは、苛酷非情な戰さの不條理に込める怒りと、不本意に葬られた人々に寄せる鎭魂の祈りが聞こえてくる」 さうだ。
成程、さう云ふ讀み方も出來るのかも知れないが、作者たる杉本苑子さんの思ひは、もう少し違ふ處にあるのではないか、と私は思ふ。
靱負に遺書は無く、たゞ辭世だけが殘されてゐて、それはかう云ふものだつたと云ふ。
「住みなれし 里も今さら名殘りにて 立ちぞわづらう 美濃の大牧」
杉本さんも、それ以上は書いてをらず、だから、その死の意味は讀者が想像し、察する他はないのだが、私の想像ないし推察はかうである。
靱負は薩摩藩家老としての 「公務」 は立派に果したものゝ、その爲には 「人の道」 に外れる惡事を、數々爲さねばならなかつた。 大阪の商人らを瞞したのもさうだし、かの商家の娘を敢て不幸にしたのは、更にさうである。 その 「道徳的な罪」 を、彼は自決によつて償つたのだ。
勿論、彼の死によつて全てが償はれた譯ではない。 と云ふより、現實問題としては何も償はれなかつた、とも云へよう。 瞞された商人らの 「損金」 が戻つた譯ではないし、況してや不幸な結婚をさせられた商家の娘が、幸福を取り戻せた譯でも更々ないのだから。
けれども、靱負には他にどう云ふ遣り方があつたらうか。 彼が 「人の道」 に拘つて 「善人」 を通せば、「御手傳ひ」 は失敗して薩摩藩は滅び、藩主に對しては不忠、大勢の藩士やその家族には、路頭に迷ふ悲慘を味はゝせる事になるのだ。
一方、「公務」 の爲には已むを得ぬとて、「人の道」 を蔑ろにして濟ませれば、傍目には悠々餘生を全うする事も可能だつたらう。 が、その選擇肢は信仰も武士道も無い我々現代人には有り得ても、薩摩武士たる靱負には有り得なかつた。 それでは己の信ずる 「人としての在り方」 を全否定する事になるのだ。
そこで靱負は自裁した。 それによつて 「カエサルのもの」 たる 「公務」 と、「神のもの」 たる 「個人の信條」 との雙方に、精一杯忠實であらうとしたのだ。
それが完璧な決著の附け方でない事は、既に述べた通りだし、況してや、靱負がイエスの言葉を知つてゐた、と言ふのでも勿論ない。 が、折しも民主黨の永田寿康議員が、例の 「堀江メール」 の一件に就いて嚴しく責任を問はれてゐるし、少し以前にはヒューザーの小嶋社長や、東横インの西田憲正社長らの事件もあつた。
これ以上、敢て詳しくは言はぬが、その他諸々の今人達の身の處し方と、先人たる平田靱負のそれとを比べてみるとき、私はやはり、今更ながらに 「今昔の感」 を覺えると共に、胸中、肅然たるを禁じ得ないのである。